目線

 思えば。
 講義の開始を知らせるベルが鳴る以前から、彼の様子はあきらかにおかしかった。
 
 しきりに首を傾げてみたり、やたら目を擦ったりと。
 いつも以上に落ち着きがない隣のせいで、嫌でも僕の意識は台座に登った教授ではなく、そっちの方へと引っ張られる。
 始まって早々、今度はぼろぼろと涙まで流し始めた。耐える間もなく新たな水の玉が生まれてくるようだ。煩わしげに何度も袖で拭い続けている。必死の防御だ。しかし、空しくもまた、落ちた。
「おい、大丈夫かよ?」
「……ああ。ちょっと寝不足なんだ」
 力なく半開きになった両目は視点の定まりがひどく鈍っている。ワンテンポ遅れてくる答えといい、とても「大丈夫」には見えないし、思えない。
 なんでも、研究担当の教授から、提出要求されていたレポートを徹夜で仕上げた結果らしい。
「正直二年くらい前ならオールなんてホント余裕! って、感じだったんだけどなぁ。歳かな?」
「計画的にやらないから、そんな目に遭うんだよ」
 一日くらい寝なくたって何も変わらない、と思っていたが、かなり辛い……。心底だるそうにぼやく友人に、回ってきたプリントを後ろの席に座る顔見知り程度の同級生に手渡しながら、僕は呟く。
 不可解な行動の理由が分かれば、それで十分だ。無駄に気にならなくて済む。
「おいおい、冷たいな」
 嘆きつつも、ちくり、棘のある物言いをしてくる彼を無視して、配られたプリントに目を通した。
 A4の白い紙面上、抗ガン剤の作用機序が図とともに示されている。アルキル化薬にホルモン製剤。きっちり時間厳守な教授らしく、種類ごとに振り分けられた薬剤の名前が五十音順に並べられていた。丁寧に通し番号付きだ。長々と二ページ、その裏側まで続いている。
「最後まで行き渡たりましたね。さて――」
 口を開いて、ぽつぽつと説明を始めた教授にならい、僕も蛍光ペンのふたを取って構えた。
 目の端に映った見慣れた右腕も、気だるげにペンケースをあさっている。
 ――眠くても聞こうとする、その態度に関しては尊敬してもいいか。
 頭の隅、存外失礼なことを思い描きながら、僕は前を向いた。
 
 ***
 
「――となるため、異常な細胞の増殖が阻害されていくわけです」
 では、次のページにある問いを解いてみてください。
 良く言うならば丁寧に、悪く言うならば、長ったらしく助長に。つらつらと語られていた説明が途切れた。補足された部分を書き込んでいたボールペンを離して何気なしに隣を見た僕は、思わず目を瞬かせた。
 静か過ぎるな、とは感じていた、が。
 ぐらり、ぐらり。前後に容赦なく彼は傾ぐ。
 突っ伏したいと揺れる体は正直だ。生易しいものではない。
 こうして見ている間にも、どんどん落ちる首の角度が増している。
 彼の漂っている海はだいぶ荒れているようで、見ているこっちが変にひやひやしてしまう。
 と、
 ――みてみて。相沢君、大変なことになってる。
 一瞬だが、後ろから聞こえた控えめな笑い声に僕の耳は敏感になった。
 やめてくれ。舟の漕ぎ方ひとつで笑われたら、彼が気の毒だ。
 と言うよりも、僕も笑いが堪えられなくなる。押し寄せる睡魔と戦うその瞳が、情けなくも半目であることに気付いてしまったこっちの気持ちも察して欲しい。
 さすがに一度起こしてやるべきか、否か。
 解くようにと指示された問題をほったらかして、うっすら迷っていた、その時。
 前方から、見えやしないはずの「視線」と言うものを、僕は強く感じた。
 ゆるく頭を持ち上げながら、その跡を辿る。肩口で揺れる甘いショコラ色の髪――彼女だ。 
 隣り合う友達に困ったような笑みを浮かべて答えている。
 その目が捕らえているのは、僕の左で、僕ではない。
 今、不自然に目立っているのは「彼」なのだから、当たり前だ。
 当たり前のことなのに、薄っぺらい皮膚の表面がざわつく。胸のあたりがやけに重い。
 教授は新たな項目について、ひたすら板書することに一生懸命だ。彼の振り返る予定が、まだ先であることをもう一度だけ確認して僕は――揺れの治まらない背中を小突いた。
 わざと人差し指を目立つように折り曲げて、衝撃だけでなく痛みも与えてやった。
 文字通り、彼は飛び起きた。水中からいきなり陸へと放り出された勢いのまま跳ねる魚のように、びくついた。
 ほんの一間。訳が分からないと戸惑いの色を浮かべていた瞳が、僕の不自然な形の拳を見つけたとたん、睨みつけてきた。
「な、なにするんだよ」
「なにって。あのなぁ、お前倒れそうになってたんだよ」
「えっ? まじ?」
 怪訝な顔で確認してきた彼に、至極真面目に僕は頷いて見せた。やらしいほどに重々しく、だ。
「自分で自分の頭ぶつけて跳ね起きるほうが、よっぽど恥ずかしいだろ?」
「ああ……、それはちょっと、さすがの俺でも遠慮したいわ」
「だろ? 何かあったら起こしてやるから、寝ろよ」
 悪びれることなく嘯いた(全てが嘘と言うわけではないけれど)僕を疑うことなく彼は、素直に腕を枕にして、倒れるように突っ伏した。ものの数秒で呼吸が穏やかになった。
 遮りが消えて、大きく開けた左半分の視界。
 彼女の目線が、こちらにも向いた。はっきりと確かに目が合った。
 とたん。勝手にもやついていた胸の内側が、嘘のようにすっきりした。
「それぞれの薬剤がどのようなガンに対して使用されるのか、その点も大変重要です」
「点と点をつないで、理解を深めてください」
 どこかくぐもっていた教授の声さえも鮮明になる。
 
 そうだ。胸のつっかえなんて、そんなもんだ。
 
 プリントへと目線を戻して僕は。ふたたび蛍光ペンを握った。
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