全ては我が手の内なり

「今日はね、キスの日なんだってさ」

『ただいま』でも、私の『名前』でもない。
 賃金稼ぎから帰ってくるなり、我が主が投げてきた言葉だ。
 どうせまた年がら年中握りしめている、あのちんけな箱から得た情報を口にしているだけなのだろう。
 私には良く分からない、というか理解したいとも思わない。
 きっと考えたところで何の役にも立たないのだ、こちらの世界では。
「素敵よねぇ……あれ? でも何で今日?」
 ほら、みたことか。肝心要である事の始まりさえ分かっていないじゃないか。
 これでは「意味などない」に等しいものである。まぁどうでもいいことだ、それよりも――、
「うーん、気になるな。ええっと、パソコン、パソコン」
 いやいや、そんなことよりもよほど重要なことがあるだろうに! 
 まさか忘れているのだろうか? 
 いや、いくら鳥頭の我が主でもさすがにそれはないだろう。
 毎日の決まり事だ、それさえも忘れてしまっては主たる彼女の価値がなくなってしまう。
 信じていないわけではないが一応の確認のため、私は顔を上げてみた。

 愛すべき我が寝床から一変。私の曇りなき眼(まなこ)に、くくっと映り込んできたのは、テレビの真ん前に待ち構えた低反発クッションという定位置に座り込む、見慣れた女子の後ろ姿。 
 主(あるじ)よ、今日は「きゅうかんび」という日ではなかっただろうか?
 机の上に置かれている、あの薄桃色の缶はどうみても酒だ。
 ああ、ヨレヨレのスウェットがなんともだらしない。無駄に着飾って出掛けて行く朝とは大違い――
 ……おっと、呆れている場合ではない。このうえなく重大な仕事が残っているのだ。飲むのはその後にしてもらわなくては。

 抗議の一声をあげるべく、私は口を開いた。
 目を閉じて、普段より強めに鳴いてみる。
 一度では足りないだろうから、二三度続けた。

 ほら、この不機嫌さに早く気がつけ、バ――

「タロウくん、どうしたの? 大きな声出しちゃって、珍しいね」
 いそいそと私の居るベッドまで駆け寄って来たのはいいが、どうも上手く伝わっていないようだ。
 くそっ。腹の音でも一発鳴ればいいのだろうが、あいにく今まで一度もそんな音を立てたことがない。
 気品あふれる母も、無駄に世話好きだった店の主人も教えてくれたことがなかった技である。
「あっ! そうか、分かった」
 と、八の字眉だった主の顔が、瞳が輝いた。つられて私の心も浮足立つ。
「このごろ帰って来る時間が遅かったからなぁ。ごめんね……寂しかったんでしょう?」
「……」 

 可哀想だが、頭の大事な回線が大爆発してしまったみたいだ。
 見当違いも甚だしい、というよりも謎だ。謎すぎる。どうしてそんな考えになるんだよ!

 ……いけない、気持ちを静めなければ。
「いつでも優雅に、気品高く生きなさい」
 別れる前日、暖かい寝床の中でそう母に強く教わったのだ。
 弱い相手に対して闇雲に怒りをぶちまけるのは、美しくはない。
 そもそも、頭の回転の鈍いものに対して「空気を読め!」と期待する方が悪かった。
 やはりここは私自らが導いてやるしかないのだ。

 ならば、早速行動に移ろう。 

 正しい答えへと辿り着いた私は、背中を撫で続ける手から逃れるように立ち上がりぐっと伸びをしようとした。
 のだが、不発に終わった。
 急に脇を掴まれたかと思えばすっぽり横抱きにされてしまったのだ。
 変に力が抜けて気持ちが悪い。
「一体どういうつもりなのか」と、非難の意味を込めてしっぽを振りまわす。
 とっさに仕掛けた渾身の攻撃のつもりであったが、相手にはくすぐったいだけだったらしい。身を捩っただけで離してくれない。それどころか、さらにしっかりとホールドされてしまった。
 しかも。そのままもと来た道(リビング)へと進み出そうとする、なまっちろい足。

 もしかしたら、このまま台所まで連れて行ってくれるのかもしれない。ならば身を任せてしまおう。

 そう、思った矢先だった。
「ふふっ、そうだ。せっかくのキスの日なんだし、ねっ、タロウ君としちゃおうか!」
 私は主の言葉に自分の両耳を疑った。
 ちょっと待て、何を言い出すんだ。もう酔いが回り始めているのか?
 奇妙で不快な違和感に髭がぴりぴりと痺れる。
 慌てて机の上で突っ立っている「そいつ」に目を凝らすも蓋が開いた形跡がない。
 ということは素面、素面でこんな血迷ったことを言っているのか!?
 驚きと迫りくる恐怖から動けない私を尻目に、主は普段からは想像もつかない素早さでベッドに腰掛けた。
 しっかりと両足が掴まれたままだ。逃げられない。
「ほ〜ら、こっち向いて!」
 恐ろしい力によって正面を、主の顔と向き合わされた。くっきりとした笑みを刻んだ唇。やばい、目が本気だ。
「相手がいなくたって楽しめるもん。タロウだって楽しめるもんねぇ」
「!」
 何かを思い出すように曇った焦点。なるほど、ようやく読めた。
 これは恨み、明らかに私怨と呼ばれる感情だ。
「キスの日」について、内輪で盛り上がっていた我が主は誰かに「相手」がいないことを馬鹿にされたらしい。「かれし」持ちという彼女よりも一歩先を行く誰かに。
――だからといって私を巻き込む必要がどこにあるのだろう。そもそも相手がいない自分を恨むべきであり、私にすり寄って来るのは大きな間違いではないか!
 しかし。
「はい、ちゅう〜」
 そんな私の憤りなどこれっぽっちも理解することなく、妙ににやついた顔が近付いてきた。
 早くも遅くもないスピードが気持ち悪い。いや、もう全部がダメだ、虫唾が走る。
 急いで両手いっぱいに力を入れて、容赦なく近づいてくる物体から思いっきり首を背ける。
 こういうときのために身体がやわらかくできているのかと錯覚してしまうほど、私は頑張った。
「ちょっと、そんなに嫌がらなくてもいいじゃない! 減るもんじゃないでしょう?」
 減るものではないが、私の唇は高いのだ。近所のタマさんやミケさんのためにある唇なのである。いくら我が主といえども渡すわけにはいかない。いや、主だからこそ渡せない。
 互いに譲り合うことができない戦いを続けること、計十数回。

「もう、いい。タロウの気持ちがよく分かったよ」

 重い溜め息とともにベッドの上に投げ出された。
 ついに終わった、私は解放されたのだ。急いで乱れた毛並みを揃える。足を舐め上げる隙に、ちらりと横を盗み見ると、掛け布団に顔を埋めたまま動かない主の姿があった。
 僅かに肩が震えている。さすが、我が主人だ。落ち込みかたも大げさだ、というより大人気がない。
「ペットにまで拒否されるアタシって何?……」
 くぐもった力のない呟きがその惨めさにますます拍車をかける。

 さて、青二才ならばここで終わるだろう。確かに残された選択肢は自分の寝床へ戻るだけだ。しかし、私は立派な大人だ。こういう場合におけるスマートな対応を完璧に理解している。
 やれやれ、また実践しなくてはならないとは。
 困ったものだが仕方がない。頼りない肩にふらりと近付いて、私は短く鳴いた。
 ぴくりと反応した主の頭がゆっくりと上がって、私を探す。もう一度鳴けば涙で潤んだその瞳に私が映り込んだ。
 跳ね上がった前髪を携えた間抜け面に、ずいっと勢いよく近付けばより大きく自分が見えた。
「タ、ロウ……くん?」
 もう一歩。そのまま微妙に赤らんだ鼻先に自分の鼻をくっ付ける。おまけにぺろりと一舐めしてやった。
「――っ!」
 きょとんとした表情から一変、主の顔がみるみる内に綻んでいく。
 謎の叫び声とともに思いっきり抱き締められた。
 ああ、せっかく整えた毛が一気に毛羽立ってしまった。容赦なく頬が擦られて痛い。
 本当ならば、鼻を噛みちぎってやりたいところではあるが我慢する。
 何故かって? それは私が彼女と違いれっきとした大人だからだ。まぁ少しぐらいは子供のわがままに付き合ってやらねばならない。
 それに、あともう少しなのだ。
 いつもの倍以上のにぼしを盛られた猫缶という最高の食事に辿り着くまで、残り一分。
 にやつく口元が気付かれないように、喉を鳴らして――私は尊敬してやまない我が主の腕に頭を強くすり寄せた。
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